- 2013-03-06 (Wed) 14:48
- ユーレカの日々
宇宙戦艦ヤマト。見たことがなくても、名前を知らない人はいないだろう。今から40年ほど前に大ヒットしたSFアニメだ。2010年にキムタク主演で実写映画化され、また昨年より制作されていたリメイク「宇宙戦艦ヤマト2199」が春からテレビ放映されるなど、ちょっとした盛り上がりをみせている。
僕自身もそのリメイク版ヤマトをすでにリリースされているDVDを懐かしく見たり、新しくリリースされたプラモデルを買ったりと、楽しませてもらっている。
物語は西暦2199年。宇宙からの謎の攻撃で地球は滅亡の危機に瀕する。そこにイスカンダル星から援助のメッセージが届き、地球最後の宇宙戦艦であるヤマトが敵であるガミラスと闘いながら、イスカンダル星を目指す、というお話。
すでに「SFの古典」と言っていいだろう。わかりやすく、よく出来た話である。ベースになっているのは海外SFドラマ「スター・トレック」、そして「西遊記」と「15少年漂流記」だ。これが太平洋戦争の戦記ドラマのテイストで語られる。
毎回毎回、ワクワクしながら放映を見た。ぼくだけでなく、中学生男子は皆、夢中になっていた。放映翌日には学校で戦艦の名前やストーリーの予想など大いに盛り上がった。
とにかくあの時代、ヤマトは間違いなく、最先端コンテンツだったのだ。
●すべてはヤマトからはじまった
ヤマトがどれだけのインパクトがあったのか。それはヤマトの前後の変化を見れば明らかだろう。
アニメ専門雑誌、アニメのオリジナル・サウンドトラック、劇場版の制作、コスプレ、公開初日に朝から行列。
今ではごく当たり前のこれらはどれも、ヤマト以前には存在しなかった。ヤマトブームの中で生まれ、その後スタンダードになったことなのだ。コミケが1975年末からスタートしているのもヤマトのブームと無関係ではなかろう。それほど、ヤマトというアニメはビッグバンだったのだ。
その後ヒットしたガンダムと比べると影が薄い感じがあるが、歴史的に見てヤマトはガンダム以上の日本のアニメの大きな転換点であり、現在も続くアニメカルチャー、オタクカルチャーのルーツだ。
●ヤマトに夢中
宇宙戦艦ヤマトが放映されたのは1974年。ぼくは中学生1年だった。そろそろマンガやアニメといった、子ども向けのものが物足りなくなり、小説や音楽に興味が移りつつある年頃。たまたまテレビで見たヤマトにぼくは釘付けになった。
戦艦大和が宇宙を飛ぶ、という荒唐無稽なビジュアルであるにもかかわらず、それをリアルに見せるビジュアル、演出がそれ以前のアニメとは全く違っていた。
松本零士氏とスタジオぬえの手による精緻なメカデザインや、リアル感のある呼称(波動エンジンだとか、主砲だとか、ワープ航法だとか)。たとえばガッチャマンでは「バードミサイル」を発射するのにボタンを押すだけだったのが、ヤマトの「波動砲」はまず「機首をどっちに向けて」からはじまって「エネルギー充填〜閃光防御」などいくつものステップが丁寧に描かれる。
こういった描写がもたらすリアル感は、アニメから卒業しかかっていた中学生を引き止めるのに十分なインパクがあった。「中高生男子の鑑賞に耐える」はじめてのSFアニメだったと思う。
●ヤマトの本質は「普通の組織」だった
僕自身、長い間、ヤマトが新しかったのはそういった「リアルさ」だと思っていたが、今回リメイクされた2199を見て、もっと本質的な部分に気がついた。
それはヤマトというドラマが「組織」を描いていたことだ。
ヤマト以前のシリアスドラマのアニメはほとんどみんな、ヒーロー、ヒロインもの。アトムしかり、巨人の星しかり。ジャンルは違えど、ほとんどがヒーロー、ヒロインものだ。
これに対し、ヤマトにはヒーローがいない。古代進という若者が主人公ではあるが、超人的なパワーもなければ、飛び抜けた才能才覚があるわけでない。戦闘班のリーダー、という立場にあるものの、個人として地球を救うような大活躍はしない。
ヒーローの代わりに物語の中心に据えられるのが「普通の人たちによる組織」だ。主人公はじめ、ヤマトの乗組員たちは皆、志願兵だ。特別な能力があって選ばれたわけではない。
それぞれには明確な仕事が割り振られる。たとえば古代の仕事は「戦闘」だが、それはあくまでも「イスカンダルへの旅」というプロジェクトの一部であり、全体ではない。単純に「敵をやっつければOK」というものではなく、戦闘、航行、調査など、それぞれの仕事が遂行されてはじめて、イスカンダル星への往復の旅というプロジェクトが完了する。
そういう視点でヤマトを見ると「寄せ集められた研修明けの新入社員たちがプロジェクトに取り組む」、まるで会社組織のような話だ。
ガッチャマン、ガンバの冒険、009など、チームの活躍を描くドラマは多いが、チームの場合、それぞれの個性と、その役割というのが基本的に一致している。集まるべくして集まった仲間がチームだ。キャラクターの行動と思想が一致している。
「地球の平和を守るため」という大義名分だけを見るとヤマトも同じように見えるが、ヤマトの乗組員たちは平和というより自分たちの生活を守るために、自分ができる仕事をしている。
つまりヤマトは、ヒーローたちの「思いによって結成されたチーム」ではなく、「仕事と個人の考えが切り離されている組織」を描いているのだ。この「普通の人たちの組織とプロジェクトを描く」ということこそが、ヤマトがもたらした新しさだった。
●ヤマトで描かれるホウレンソウ
組織とプロジェクトを描く、というアイデアはそれ以前はなかったのだろうか?
ヤマトの直接のご先祖様のひとつ、アメリカのテレビドラマ「スタートレック」と比較してみよう。
スタートレックでは「惑星連邦」といった組織に属するエンタープライズ号の冒険が描かれるが、主人公はカーク「船長」だ。船長なのでカークが決めたら皆が(渋々でも)従う。つまり、スタートレックはカークの冒険譚なのであって、組織のドラマではない。
また、エンタープライズの旅は「深宇宙探査・防衛・外交・巡視・救難などあらゆる任務を行う」。言い換えれば毎回毎回、行き当たりばったりであって大きなプロジェクトではない。
ヤマトはこれにくらべるともっと構成が複雑だ。
あらゆる行動は「1年以内にイスカンダルからコスモクリーナーを持ち帰る」プロジェクトのためにある。毎回、遭難したり敵と戦ったりするが、それはこのプロジェクトの過程でのできごとだ。
ヤマトで特徴的なのが「ブリーフィング」の場面だ。何か問題が起きるとそれぞれの部署の責任者が意見を述べる。協議の上、最終的には艦長が決定をし、作戦にのっとり各自が行動する。作戦が終わると報告がある。反省がある。
そう、組織でもっとも重要な「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」が丹念に描かれているのだ。
それぞれの仕事ははっきりと決まっている。航海長の島はけして「俺に波動砲を撃たせろ!」なんて言わないし、戦闘班長の古代も「俺が舵を取る!」なんて言わない。全員が自分の部署で仕事に専念する。
敵であるガミラスもまた、組織だ。階級があり、分担がある。こちらでも常に「ホウレンソウ」が行われ、それを怠ったことで戦局を左右するようなミスを誘発したりする。
こんなアニメは他になかった。これはもう、完全に「大人」にしかわからない世界だ。大人の世界そのものだ。
中学生だったぼくをはじめ、当時の若者はそういう「組織」に大人の世界を見ていたのだ。
今回リメイクされた「2199」では、主役の古代の個性は随分と控え目に描かれている。そして、敵も味方「組織」としての描き方がより際立っている。
数年前に公開されたキムタクが主演した「実写版ヤマト」は徹底して主役の古代進の視点で描かれている。また敵のガミラスが組織ではなく単なるモンスターとして描かれていたため、結局は古代進のヒーロードラマになってしまった。いまひとつ、ヤマトらしさが薄く感じられたのは、「組織」という面がスポイルされてしまったからだったのだ。
(余談だが、実写のヤマトは他人同士が家族になっていく、という視点で原作とは違った優れた脚本であると思う。これは原作にはなかった視点だ)
●なぜヤマトは組織を描いたのか
なぜヤマトは組織を描いたのか。
おそらく「太平洋戦争の戦記ドラマのテイスト」という演出意図から、登場人物の階級や役割といった設定を丁寧に行なっていったのが直接の動機だったのだろう。
しかし、そういった演出上の意図だけでなく、制作体制が与えた影響、すなわち「ヤマトが原作を持たない、オリジナル企画」だったことが大きいと思う。
マンガが「個人」の話になるのに対し、アニメは「集団」の話になりがちである。
組織の運営をテーマにしたマンガは、ドカベンなど一部のスポーツマンガなどがあるが、ごく少数だ。
これはもともと、マンガが個人制作であることに起因する。特にマンガは若い歳でデビューするのが通例なので、組織に属したことがない、という作家が圧倒的に多い。属したことがなければ、組織の面白さということを描くことはできないのだ。
「悪の組織」という言葉があるが、マンガにおいて、組織が出てくる場合は「敵」になってしまう場合が多い。会社員になりたくない、というのがマンガ家になる動機だったりするからだろうか。また、作家個人が自分の考えを「出版社」という組織に認めさせる戦いが日常だからだろうか。とにかく、マンガにおける組織は「悪」である場合がほとんどだ。
それに対し、アニメは組織で作る。
映画やドラマにあまり興味のない人たちのために説明しておくが、これらのストーリーは必ずしも「脚本家」が作るものではない。脚本家はあくまでも「脚本を仕上げる」役割であり、ストーリーのアイデアは監督やスタッフ、またスポンサーの意向など、複数の人間から出される。それをまとめあげるのが脚本家の役目だ(もちろん有名脚本家がすべての主導権を握る場合もある)。長いテレビシリーズになれば、複数の脚本家が分担で執筆することが普通だ。
そういう組織で作られる物語だから、アニメオリジナルストーリーは組織やチームの話になる場合が多い。ガンダムやエヴァンゲリオンもそうで、主人公が組織に馴染めようが馴染めなかろうが、組織を無視した話にはなかなかならない。
この傾向はマンガのアニメ化からも読み取れる。
パトレイバーや攻殻機動隊、プラネテス、どれも原作よりも組織という面が強調されている。これはやはり、組織という場に身を置くスタッフが、そういう部分に自ずと興味が行ってしまう結果だろう。
ヤマト以前は、TVアニメはほとんどがマンガを原作にしていた。これはつまり、その時代アニメ界はまだオリジナル企画を出せるだけの体力がなかった、ということだ。
だからそれらは組織を描くに至っていなかった。
テレビオリジナルストーリーであるウルトラマン、ウルトラセブンが、アニメよりも先に特捜隊、警備隊といった「組織」というものに着目していたのも、偶然ではないだろう。
●ヤマトがダメになった理由
ヤマトは一作目のヒット以降、映画やテレビ、ビデオでいくつもの続編が作られてきた。ぼくは二作目の映画あたりですっかり興味を失ってしまった。
なぜヤマトがダメになったのか、それは一作目の最後の方でも見受けられた「愛」を語ってしまったからだ。
ヤマトの中で古代が「我々は戦うべきではなかった、愛しあうべきだったのだ」というセリフがあるが、中学生でもこれにはドン引きしたし、実際、あちこちでからかいの対象とされた。
組織、仕事、プロジェクトということと、愛というものは相容れないからだ。どうすれば仕事がうまくいくのか、それぞれの仕事がうまく咬み合って目標を達成できるのか。「愛」でそれができるわけがない。効率が上がらない部下に「お前は仕事に対する愛が足りない」という上司は、言うまでもなく「無能」だ。
2作目以降、愛というキーワードが強くなるにつれ、ヤマトの組織としての面白さはどんどん失われていく。
第一作が抽象的な「愛」に陥らずに済んだのは、「イスカンダルへの旅」というプロジェクトを物語の構造に据えていたからだ。
そう考えると、組織を描くことでヤングアダルトの心を捉えたのは制作者たちの狙いではなく、幸福な偶然だったのだろう。
組織という大人の世界を描くこと。普遍的な仕組みを描くこと。だからこそ、ヤマトは当時、中高生に支持されたのだ。
結果としてぼくは組織というものをヤマトから教わった。
役割と個性は違うこと。どんな組織でも、機械のようにはうまく機能しないこと。人は間違え、それを補うために組織というものがあるということ。非情に見える敵にも、そうせざるをえない理由があること。
●ヤマト以降、組織はどう描かれたのか
ではヤマトの影響下で作られたガンダムやエヴァンゲリオンはどうだろう?
どちらも組織を描く、ということをヤマトから引き継いでいるが、ヤマトと大きな違いがある。
それは「組織に翻弄される若者たち」を描いていることだ。
アムロにせよ、シャアにせよ、シンジにせよ、組織の人間だが、彼らはその組織に馴染めないでいる。常に「組織に不信感を抱く個人」対「組織」という図式でドラマが語られる。そもそも、主人公たちが属する「ホワイトベース」も「ネルフ」も、全体の組織の中ではとてつもなく異端児だ
この時代から若者はもう、大人たちの言う組織を信じなくなっていたのだ。
●組織というノスタルジー
今、ヤマトを見て改めて思うのは、ヤマトが描いた「組織」が昭和的であることだ。
昭和の時代。組織は運命共同体だった。企業は従業員はもちろん、その家族まで面倒を見るのが当たり前だった。社宅、社会保険、保養施設、企業運動会、退職金。教育から老後、娯楽にいたるまで、企業が面倒を見てきた。雇用する、というこは、その家族まで生涯面倒を見る、ということだった。組織が家族、村であることが日本の組織のあり方だった。
「ヤマト」で描かれていたのは、まさにこの昭和の企業だ。組織をうまく機能させることがそこに属する人たちの幸せに直結するという「運命共同体」だった。
ガンダムやエヴァの時代。若者が組織との関係に悩んでいても、それでもまだ組織は運命共同体でいられた。
そして現在。昭和の「運命共同体としての組織」というものが解体されつつある。
どの企業も、リストラに必死だ。いかに少人数で利益を上げるかが命題だ。その結果、非正規雇用がどんどん増えている。おそらくこれが行き着く先は、終身雇用の終焉だろう。アメリカのように、自由雇用、自由解雇、個人の意思と責任、ということになっていく。
従業員は企業を信頼しない。企業も従業員を信頼しない。その時々にそこで働くだけ。それがこれからの組織なのか。
だとすれば、これからのアニメーションで描かれる組織像も大きく変化していくのかもしれない。
しかしである。組織に対する信頼や疑いがどうであろうと、プロジェクトを遂行する組織、というものの面白さに違いはないとも思う。普通の人々が自分ができる役割をこなすことで、大きな目的が達成されるのを見るのは楽しい。
ヒーローが不在で、普通の人々が組織を動かし、プロジェクトを達成する様子を描くヤマト。40年たった今でも、それは稀有なドラマだ。
さて、春から放映されるリメイク版のヤマトは、今の若者が見たらどう感じるのだろうか。
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