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ユーレカの日々[17]「あかるく楽しい戦争」

先月末、ディズニーがルーカスフィルムを買収したことが報道され、世界中のスターウォーズファンを驚かせた。

ルーカスは変人だ。最初のスターウォーズで成功したあとはハリウッドを嫌い、監督組合も脱退し、自己資金でスターウォーズシリーズを作り続けた孤高の人だ。そんな彼が自分の会社まるごとディズニーに売却するとは思ってもいなかった。

ぼくにとって、ぼくの世代にとって、スターウォーズはとても特別な映画だ。

ぼくの世代は、「科学」が進めば世界は幸せになれると信じられていた時代に幼年期を過ごした。アポロの月着陸を見たり、万博を体験したり、「ウルトラマン」や「サンダーバード」を浴びるように見て育った「科学と宇宙」世代だ。

しかしこの「科学と宇宙」への情熱は、アポロの月着陸後急速に急速に冷めていく。ベトナム戦争が泥沼化し、日本や中国といったアジアの経済が発達し、世界はもう、科学や宇宙だけでは幸福になれないことに皆が気がついた時代。映画の世界も体制に対して疑問を投げかけるような、社会的なテーマが多く、未来を語るSF映画はすっかり下火になっていく。

そんなSF映画の停滞期にさっそうと現れたのがスターウォーズだった。

最初のスターウォーズは、ぼくが高校二年の時に日本で公開された。

今でこそ、クラッシックコンテンツのひとつにすぎないこの映画が、その後のアメリカ映画の流れをがらっと変えてしまった。さらに同じタイミングでやってきたデジタルゲームへも大きな影響を及ぼした。まさにエポックメイキングな作品なのだ。

スターウォーズは映像として数多くのことをやってのけた。

コンピュータ制御のカメラによる多重露出を使った、スピード感あふれる合成。

数コマ単位でのめまぐるしい編集による、理解させるのではなく、感じ取らせるような演出。

一度見ただけでは理解しきれないほど過剰な情報が可能にした、異世界の創出術。

たしかにどれも、その後の映画やゲームを一変させる「大発明」だった。

その映像の魅力はとてつもなく大きかったけれど、ぼくにとって、ただ一点、不満なことがあった。

スターウォーズはSFではないのだ。

 

●スターウォーズはSFではない

たしかにスターウォーズには宇宙船や宇宙人、ロボット、超能力と、SF的な表現が山ほど出てくる。しかし、物語や設定には、SF的要素は皆無なのだ。

よく学生に「SFってなんですか?」と聞かれ、「まず、スターウォーズはSFではない」という説明をすると、みんなびっくりする。宇宙船やロボットが出てくるのに、なぜSFではないのか。

SFとは、あるテクノロジーが実現したとき、人間はどうするのか、ということを扱う文学だ。人類が宇宙に進出したらどうなるのか。地球が滅びる時どうなるのか。コンピュータが進化したら?不老不死が実現したら?時間をさかのぼることができたら?その時、人間はどう行動するのか。

そういったことを論理的に考察してゆくのがSFだ。

スターウォーズには、そういった面はまったくない。描かれるテクノロジーは華やかに見えながら、理屈や因果関係などはなく、やっていることは西部劇となんら変わらない。SFの核となる、仮定も論理的な考察も皆無なのだ。

SFにはもうひとつ、別の側面がある。それは寓話にリアリティを与えるために、SF的な方法論を導入するというもの。

代表的なのは「猿の惑星」で、戦時中に日本軍捕虜になった体験を寓話化したものを、映画化する際さらにSF的な理由付けを行ったもの。ルーカスのデビュー作「THX1138」も、当時の社会を批判的に描くために、個人の自由を完全に奪われている未来世界というSF設定が使われた。

スターウォーズも、このパターンに見えるが、よく考えるとちょっと違う。

映画で描かれているのは現在の社会や時代とは一切関係のない世界。なんらかの寓話にリアリティを与えるためであれば、現在の社会との関連がもっと必要だろう。

スターウォーズに夢中になりながら、それがずーっと疑問だった。この映画はなぜ、SFではないのだろう?ルーカスはなぜ、こんな映画を作ろうと思ったのだろう?

 

●テーマが見えない不思議な映画

ルーカスが描きたかったことを確認するため、今一度物語を見直してみよう。

第一話であるエピソード4では、田舎の少年が大きな世界にあこがれ、戦争に参加し、名声を手に入れるまでが描かれる。困っているお姫様を助ける、という大義名分はあるが、その様子は単純に戦争を楽しんでいるように見える。

また、続編までを見てみると、父親であるダースベイダーとの確執がドラマの軸となっていく。

たしかに、それは、きびしい父に反発していたというルーカス自身の境遇を反映しているように思えるが、それが描きたくて作ったにしてはムダな部分が多く、描き方も類型的で映画のテーマとしては物足りない。

考えれば考えるほどテーマが見えてこない。それがこの映画を、他と比べてなにかとても奇妙な存在にしている。

ルーカスはいったい、何を描きたかったのだ?

ルーカスの評伝などを読むと、コンセプトは「古き良き時代の娯楽映画の復権」が狙いであったとある。ターザンなどの連続活劇のことだ。

また、物語は黒澤明の「隠し砦の三悪人」からインスパイアされたもの。

そして冒険活劇の舞台は、ルーカスが子どものころ親しんだ、フラッシュ・ゴードンなどのSFコミックスから。

しかし、どうもこれらを混ぜただけでは、スターウォーズにならない。

新しいアイデアというのは、既存のアイデアの組み合わせから生まれる。しかし、デタラメに組み合わせたからといって、よいアイデアになるわけではない。スターウォーズになるためには、なんらかの「狙い」があるはずなのだ。

似たようなコンセプトで作られた映画が日本にある。ルーカスと同世代の、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」だ。宮崎が中学生の頃考えていたというこの物語は、戦前〜戦後の少年向け冒険活劇読み物であった山川惣治や小松崎茂の「絵物語」の影響が色濃い。

しかし、ラピュタはジュブナイル、少年の成長がそのテーマであり、冒険の描写も、あくまでも人間の視点に立って描かれている。

これに対し、スターウォーズの人間描写は徹底的に淡白だ。

物語はたしかに、主人公の成長物語のスタイルだが、その描写はあくまでも淡白であり、見ている人の気持ちを動かすようなことはない。まるでルーカスは、人の気持ちに興味が無いかのようにひたすらあっさりと描いていく。

物語について、ルーカスは様々なSFや神話から、その寓意性を学び、反映させたと言われている。たしかに人物の相関やストーリー展開にそれを見て取ることはできる。たしかにわかりやすく、納得のできるストーリーだが、逆に特筆すべきようなことはなにもない。

ダース・ベイダーは魅力的なキャラクターだが、それはシリーズすべてを通してはじめてわかること。シリーズ化が未定だった第一作でのダース・ベイダーは単純に宿敵としてだけ描かれている。もし、ダース・ベイダーを描きたかったのなら、第一作の時点からもっと物語の中心に据えていたはずだ。

そんなありふれた定番の物語を描くことで、ルーカスは何を表現したいと考えたのか?それが長年の疑問だった。

ここから先は、いつもの通り、ぼくの勝手な推論にすぎない。ルーカス本人の証言に基づいているわけではない、ぼくの勝手な「納得」なので、そのつもりで読んでください。

●あかるく楽しい戦争

さて、そもそもこの映画の主役はなんなんだろう?主人公でもなければ物語でもない。SF的な論理でもない。そうなると残るのはひとつ。タイトルにもある「戦争」だ。

そうだ、ルーカスが描きたかったのは「あかるく楽しい戦争」だったのだ。

戦争というものは、悲惨で愚か。繰り返してはならない人類のあやまち。

しかしである。

戦争には、実は楽しくワクワクする側面がある。勇ましいマーチ、頼りになる武装、敵を蹴散らす快感、トリッキーな作戦、仲間との連帯…

昔の戦争映画には、そういった視点で描かれた戦争娯楽映画がたくさんあった。しかし時代は変わり、戦争をそういった視点で描くことはタブーになっていく。

ルーカスはあかるく、楽しい戦争を描きたいと思った。描きたいのは歴史ものではなく近代戦。とんでもなく不謹慎なアイデアに、ルーカスは夢中になっていく。その不謹慎なテーマは、たしかに人の遺伝子に組み込まれた、戦う本能を刺激するものだ。

人はなぜ戦争をするのか。それは間違いなく、楽しいからなのだ。戦いに疑問を持ってしまった現在の人間にとって、戦闘本能は余情感情(まつむら造語)でありタブーだ。しかし、内に秘めながら、もてあましている余情感情だからこそ、映画という娯楽のテーマとして最強なのだ。

同時期に企画されていたインディ・ジョーンズは、娯楽としての映画という意味では同じコンセプトだ。しかし、インディがスターウォーズよりも先だったら、はたして成立しただろうか?単なるレトロな冒険映画ととらえられ、スターウォーズのようなインパクトはなかっただろう。それはやはり、描かれている世界が現実の社会と繋がっているからだ。

どうすれば、あかるく楽しい戦争を描くことができるのか?そのためには、現実の歴史や国家、イデオロギーと切り離して描く必要があるだろう。リアルでありながら、痛みを感じさせない特殊効果やデザインも必要だ。

そう考えると、スターウォーズの基本設定「はるか昔、遠い銀河の彼方で」はとても納得がいくものだ。

実際、旧三部作を見てみると、そこで描かれているはプロペラ機時代のような古風な空中戦、ナヴァロンの要塞を思わせる、巨大要塞への潜入工作作戦と、航空機による突入。迫り来る戦車を塹壕で迎え撃ったり、大海戦を思わせる多数の宇宙戦艦への攻撃。そしてラスト、イォーク族による戦闘はベトナム戦争のゲリラ戦を思わせる。

舞台を「はるか昔、遠い銀河の彼方で」と設定することで、戦争の悲惨さや愚かさ、残酷さ、イデオロギーを抜きにした「たのしい戦争」が描ける。ゲリラ戦を、ベトナム戦争の戯画化ではなく、純粋に面白いものとして描ける。

人間を掘り下げないのも、そのためだ。登場人物のだれもが、戦争に疑問を持たない。抑圧された社会を描かない。戦争の意味を考えてしまうと、もう、戦争は楽しくなくなってしまうから。戦争に疑問を持たないけれど、それが愚かに見えない。現実と完全に切り離されているから。

ルーカスが旧三部作で作りたかったのは、SFでもなければ、成長物語でもない。「あかるく楽しい戦争」だったのだ。

戦争を賛美するのではなく、同時に否定もしない。ただただ、純粋に戦争という行為の楽しさを描く。なんという、とんでもないテーマだろう。これこそが、スターウォーズ旧三部作の作品テーマだ。だからこそ、革新的だったのだ。

ではなぜ、ルーカスはそこまでして戦争を描こうとしたのか。戦闘娯楽であれば、他にいくらでもアイデアは思いつく。しかし、ルーカスにとって、それは戦争でなければならなかった。

ルーカスが戦争を題材に映画を作ろうとしたのは、スターウォーズが最初ではない。それ以前にベトナム戦争を舞台とした映画を企画していた。その企画はその後、コッポラの手にわたり、「地獄の黙示録」となった。ルーカスが構想していた「地獄の黙示録」はコッポラのものとはまったく違うコンセプトだという。

どのような話にせよ、「地獄の黙示録」に取り組んでいたルーカスは、自分にとって「戦争とはなにか」ということを考え続けていたのだろう。

ルーカスが戦争というテーマをライフワークとして考えていたのではないか、という根拠は、その生まれた時代だ。大戦末期の1944年に生まれたルーカスは、少年時代、戦勝国で育つ。ミリタリードールの「G.I.Joe」が発売されたのがルーカスが10歳の時。このことからも、ルーカスの世代は、ぼくがSFで育ったのと同じくらい、戦争を遊びとして刷り込まれていたに違いない。

ルーカスが18歳の時、キューバ危機。二十歳の時にはベトナム戦争へのアメリカの本格的な軍事介入が始まる。子ども時代、あんなに楽しいと思わされてきた戦争が、大人になるにつれ次々と現実の恐怖となっていく。そんな時代にルーカスは育ったのだ。

また、ルーカスフィルムの最新作は日本未公開の「レッド・テイルズ」。ルーカス本人は制作総指揮という立場だが、自身が長年企画をあたためていた第二次世界大戦を舞台とした映画だ。ルーカスは40年近く、戦争の映画のことばかり考えていたことになる。間違いなく、ルーカスにとって「戦争」はライフワークなのだ。

ルーカスは「THX1138」にせよ、「アメリカン・グラフィティ」にせよ、もともと、作家性の強い監督だ。それが一変して、連続活劇のような、娯楽としての映画を作ることが、この映画のコンセプトだった。しかし、人間というのはそう簡単に切り替えられるものではない。自分の中に刷り込まれたテーマ「戦争」を描いてこそ、スターウォーズは単なるお子様映画ではなく、「スターウォーズ」になったのだ。

筋金入りのミリタリーマニアである宮崎駿は言う。戦争は愚かな行為と思う自分と、兵器や戦争に惹かれる自分がいる。人間というのはそういう相反する矛盾をかかえた存在なのだと。だから宮崎の作品は年を重ねるにつれ、戦いを描けば描くほど相反する矛盾をはらんだものになり、見る者にしてみれば「すっきりしない」ものになっていく。

それに対して、ルーカスはスターウォーズユニバースを発明したことで、この矛盾を分離することができたのだ。

●新三部作で描かれた戦争

では新三部作のテーマはなんだろう?

ルーカスは最初、新三部作を作る気はなかった。そりゃそうだ。三作目でベトナム戦争さえ楽しく描いてしまったルーカス。「あかるく楽しい戦争」は旧三部作で描ききってしまったのだ。

同じ舞台で何が描けるのか。新旧三部作のブランクである22年間、ルーカスは考え続けたのだろう。

新三部作は過去を描く以上、ダース・ベイダーの物語にするしかない。アナキン=ベーダ—を主人公とするとしても、はたしてそのテーマはなんなのか。悪に堕ちていく人の愚かさ?人に対して淡白なルーカスが、そのようなことに興味を持つとは思えない。

ルーカスは過去、地獄の黙示録の企画をコッポラに渡さざるをえなくなった経験をしている。自分の思いとは裏腹に物事が進んでしまう経験。もがけばもがくほど、どんどん事態がおかしな方向へ進んでいく。スターウォーズのテーマである「戦争」も、間違いなくそういうことなのだ。

新三部作は戦争のきっかけからはじまり、様々な対立が複雑にからみあい、だれも望んでいないのに、戦争という方法を選んでしまう人々の姿が描かれる。ダークサイドに堕ちていくアナキンと、戦争を止められない共和国とジェダイの愚かさが重ねて描かれていく。

旧三部作をおさらいするように脳天気なエピソード1にそっと仕込まれた暗い影。その影が徐々に大きくなり、取り返しのつかないことになっていくエピソード2と3。だれも幸せにならない、とてつもなく不幸な映画。

「人はなぜ、戦争をしてしまうのか」

それこそが、旧三部作で構築された世界を使って描ける、戦争というテーマだったのだ。

あまりにも過剰な情報量と、SF的なビジュアルにすっかりだまされてしまうが、スターウォーズというのは、そういう映画だったのだ。

単なるアトラクションムービーの古典、ではなく、個人の作品として語れる内容があるからこそ、スターウォーズは多くの人に支持され、今でも特別なものであり続けるのだ。

さて、ルーカスの手を離れ、ディズニーにゆだねられたスターウォーズ。

単なる古典コンテンツとしてだらだらと続くだけなのか、はたまた、バットマンやエイリアンのように、次々と才能豊かな監督が斬新な切り口を提示できる、魅力的なフォーマットになっていくのか。

できれば後者であって欲しいものだ。

 

初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3381 2012/11/28

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