- 2014-04-07 (Mon) 03:25
- ユーレカの日々
ようやく4月だ。年末から3月にかけて、本当に忙しかった。毎年のことだが、仕事にせよ、プライベートにせよ、いろんなことが怒涛のように迫ってきてあっという間に時間が過ぎていく。
最近流行のネット慣用句に「おれ、この●●が終わったら●●するんだ」というのがある。3月の一番忙しい時期にふと考えた。自分はこの仕事が終わったら、一体なにがしたいのか自問自答してみた。暇になったら、一番なにがしたいのか。旅行か、散歩か、ゲーム?映画?しばし考えた結果、思い浮かんだ答えが「プラモデルが作りたい」だった。
我ながら呆れてしまった。いやいや、もっとやりたいことは色々あるだろう?しかし、どうやらそれが私の本心らしい。思い返してみれば、自分の人生で過去、まとまった暇ができると、プラモデルにはまっていたように思う。
一度目は大学生時代。次は会社を辞めてフリーランスになった当初。三度目はフリーランス時代にたまたま、仕事がピタッと止まった時期。それぞれ1ヶ月くらいは模型三昧だった。
プラモデルは、だれが組み立てても同じようにできる、気軽に楽しめるホビーだ。組み立てるだけなら、さほど時間がかかるわけではない。しかし、模型にはまった人たちは、それをそのまま組み立てるのではなく、ディテールや改造を加え、継ぎ目を消し、塗装をし、時には臨場感あふれるジオラマにまで仕上げる。
そうなってくると、工作場所や、塗装場所など、時間も手間もかかる。仕事の合間の息抜きに、というわけにいかないのだ。まぁ、そういったことを存分にやってみたい、というわけだ。
●立体で気づいた、二つのアプローチ
海洋堂の出来が良いカプセルフィギュアのおかげか、今、美術大学でもフィギュアなどの立体をやりたいという学生が多い。うちの大学でも、ドール作家&フィギュア原型師の卒業生が、授業を開講してくれていて毎年人気がある。ガンプラを愛するサークルもあって、顧問をやってたりもする。
そういう話を、大学のプロダクトデザイナーの先生と話していて、ふと気がついたことがある。
フィギュアやドールを作りたい、という人がプロダクト、つまり家電やクルマのデザインに興味があるかといえば、そういう例は少ない気がする。クルマや建築のデザインをしている人がフィギュアや模型を愛しているかといえば、こちらもやはり、あまりいない気がする。
どうやら同じ立体を作る行為であっても、プロダクトや建築といったものをデザインするのと、フィギュアやドール、模型を作るのとは、どうも根本的に立ち位置が違うようなのだ。これはどういうことなのだろうか?
現代のプロダクトや建築はモダニズムといって、機能美を基本に置いている。形をどうやって決めるのかを考えるとき、近世の工芸品や建築が「装飾性」を重視してきたのに対し、現代のプロダクトは「機能こそが美である」と考える。
この考え方の根本にあるのは、そのモノ独自のフォルムを追求する、ということだ。デザイナーたちは、それまでだれも考えなかった、また、世界に存在しなかった「フォルム」を作り出すことに情熱を燃やす。ただし、ホンネで言えば「機能美」というのは実はその拠り所にすぎない。機能的であるかどうかよりも、美しいかどうかが興味の対象らしい。
たとえば100円で売られるボールペンをどうデザインするのか。描く、持ち歩く、販売する、生産する。そういったことを多方面から検討し、それを大義名分としながら本心では「自分がカッコイイと思う筆記具の理想のカタチ」を追求するものらしい。
有名建築家が設計した建物が使いにくくてしょうが無い、というのも、有名デザイナーが手がけたサインシステムの上から貼り紙がされる、というのもおそらく同じ理由だ。貼り紙されちゃうのはわかっているけど、自分の理想のフォルムが勝ってしまうのだろう。絵画でいえば、抽象画や抽象立体の世界だ。
これに対し、フィギュアや模型趣味、ドールといった造形は、実在であれ、アニメであれ、明確なモチーフが存在する。作者が「面白い」と思った対象を、立体として再構築する。
その興味は理想のフォルムの追求にあるのではなく、自分の視点、モノの見方をどうやって他人に伝えるか、というところにあるのだろう。
これは絵画でいえば、具象画、人物や風景をモチーフにした、具体的な事象が描かれている絵画の世界だ。
ここまで考えて、なるほど、と思った。
自分が建築の勉強をし、建築模型を作ったり建築を見て回るのが好きだったのに、建築そのものをデザインすることに今ひとつ馴染めなかったのはなぜか。僕自身は、模型やフィギュア、具象の人なのだ。それに対し、建築やプロダクトデザインに向いているのは、抽象の人なのだ。
どうやら、物を作る人間は「具象」の人と「抽象」」の人に二分されるようなのだ。
●具象と抽象
具象はなにか具体的な物、そのものに意味がある。それに対して抽象は様々な既存の存在から逃れた、新しい存在だ。
抽象化する、というのは、シンプルにしていく、記号化していく、という行為とも言える。たとえばリンゴであれば、それがゴールデンデリシャスなのか、紅玉なのか。素人にはどちらもリンゴなのだが、生産者にとってはまったく違う存在だ。しかし、小学校の算数の問題で、いちいち、「花子さんが買った3つ300円のリンゴ」がどういったリンゴで、どういった場所で生産されたものなのかを説明していては、らちが明かない。リンゴ、という名前をつけて「記号化、抽象化」することで、だれもが適当に「リンゴ」を思い浮かべる。
どうやら、この抽象化という行為は、主に男性の思考方法らしい。女性の脳はマルチタスク、様々な存在をそのまま認識できるのに対し、男性の脳はシングルタスクなので、そのままの状態では認識に時間がかかる。バナナやリンゴ、オレンジなどがたくさんあった場合、女性はそれを瞬時に把握するが、男性は一度に認識できない。そこで男性は「くだもの」「たくさん」という風に「抽象化」することで、対象を理解しようとするらしい。だから男性はルール、法則を見つけるのが好きだし、女性は具体的な物が好きだ。
抽象化、概念化というのは素早く意味を共有するためにはたしかにいい方法なのだが、現代のように社会の多様化が進むと、それぞれが勝手に意味を解釈してしまい、あとで擦った揉んだするケースが多くなってくる。「あれはそういう意味ではなく、こういうつもりだった」などなど。かといって、具象化ははてしなく複雑化する。法律や税金の控除など「定義はどう、こういう場合はこう、ああいう場合はどう」と但し書きが延々と続き、どれが該当するのか素人にはさっぱりわからない状態になったりする。
●具象から見たグラフィックデザイン
マンガやイラストという、僕が専門としている分野はどこまで行っても具象の世界なのだが、グラフィックデザインの世界はどちらかといえば抽象の世界だ。僕自身、グラフィックデザインを行うこともあるが、「何かモチーフの感じを伝えるデザイン」が好きだし、それしか出来ない。たとえば「ナンバープレート」とか「ネジ」とか、そういう具体的なモチーフを持ち出さないと、デザインができない。
これに対し、多くのグラフィックデザイナーさんたちは、抽象的なアプローチが得意に思える。たとえば佐藤可士和氏のユニクロのブランディング。ユニクロというブランドを表現するのに最もいいグラフィックが、あのロゴだという理由が具象の僕にはよくわからない。
たとえばオリンピックのシンボルマークである五輪は100年ほど前に決められた。元は古典的な図案らしいが、オリンピックのマークとしては、世界の五大陸を表現しているという。しかし、あれを見て大陸を連想する人がいるとは思えない。デザインした側も、大陸を連想されなくてもかまわない、ということだろう。五大陸ですよ、というのは万人が納得するための方便であり、他の何にも似ていない、新しいフォルム、つまり抽象であることが重要だったのだ。だから、あれがオリンピックのマークとしていいのかどうか、具象の僕にはやはり、わからないとしか言えない。
僕の時代の美大受験には、「色彩構成」というのがあった。僕はあれがものすごく苦手だった。課題として出されるモチーフの具象にとらわれてしまい、どうしたってお手本のようなデザインができなかったのだ。今にして思えば、あれは抽象化の試験であり、それが自分の中に皆無な人にとって、鬼門以外の何物でもなかったわけだ。
●フラットデザインという抽象化
そういえば最近、iOSのデザインが「フラットデザイン」と呼ばれるものに変わった。それ以前のデザインは、ボタンやスライダがスイッチなど具体物としてデザインされた「具象」だった。フラットデザインでは、なにかを模したデザインではなく、記号やテキストのみがシンプルに表示されるのが特徴だ。これは具象から抽象へと大きな転換と言えるだろう。
画面全体はすっきりと整理され、見やすい印象になった反面、それが押せるのか、スライドできるのかなどは直感的にはわからなくなった。iOSのデザインは単なるグラフィック、視覚認識だけではなく、自分でさわってみるという行為や、動きなども含めてデザインされているので、当初思っていたよりもずっと違和感なく馴染んでしまったが、日や時間を設定する場面などは、以前のドラム式の方が随分と使いやすかったと思う。
なぜiOSは抽象化されたデザインに変わったのだろうか?
文字や記号は抽象的だから、その意味を読み解く必要がある。たとえば、エレベーターの開くと閉じるのボタンをどうシンボリックにデザインするのか、なかなか正解が見つからない。同様に、電源の「I/O」の表記も、日本人には馴染みがなく、いつまでたっても瞬時に判断がつかない。抽象化されたデザインは、インターフェイスとしてはわかりにくいはずだ。
コンピュータのインターフェイスは、最初、文字ベースだった。テキストを打つと、テキストで答えが返ってくる。どういった命令を打ち込めば何が起きるかを、使う人間はあらかじめ知っておく必要がある。つまり、抽象的で、専門家でしか扱えなかった。
Macのアイコンとプルダウンメニューは、インターフェイスを具象化した。それにより、プログラムが何なのか、何をしようとしているのかを、一般の人はそのモチーフから「連想」できるようになった。
そして現在では、多くの人がコンピュータを普通の道具として扱えるようになった。そうなってくると今度は「なにかを模したデザイン」よりも、より純粋なインターフェイスの「カタチ」を追い求めたくなるのが抽象的思考のデザイナーの考えなのだろう。操作やセンサーによる反応まで含めた、それまでになかった、純粋なインターフェイスのありかた。おそらくデザイナーが目指しているのはそういうことなのではないか。
そういえばAdobeのIllustratorやPhotoshopのアイコンも、昔はビーナスや目玉という具象だったのが、いつからか、何のアプリなのか想像すらできない、頭文字だけのものに変わってしまった。ユニクロのシンボルも昔は男女のシルエットだった。
どちらも、唯一無二、何にも似ていない存在を目指すという考えから、現在の抽象的な物に変わっていったのだっろう。そして、先に書いたようにそれはものすごく、男性的な思考だと思う。それがタイクツに思える僕は、かなり女性的なんだろうか。
抽象化を推し進めるデザイン。そう考えると、Appleがあのリンゴという具象シンボルを捨て、抽象的なシンボルを掲げる日が来るのかもしれない(そうなって欲しくはないが)。
●具象と抽象は対立するのか
どうやら人間というのは、このように具象の人と、抽象の人に分かれるようだ。立体の世界でも、図像の世界でも、いや、料理だろうが恋愛だろうが、ありとあらゆる事象にはこの二つの属性が存在する。ありのままを認識する具象と、単純化しルールを見いだそうとする抽象。そして、おそらく、この反対の属性の思考をそれぞれが理解することは、おそらくできない。
抽象の人たちは、ルールを愛し、例外を認めない。純粋なルール、原理原則は美しいと感じ、理想の抽象化された法則を追い求めようとする。これに対し、具象の人たちは抽象的概念を具象の近似値としてしか捕らえられない。だから、よく言えば臨機応変であり、悪く言えば原理原則を平気で無視する。これが対立してしまう、原因なのだと思う。
この二つの属性は、おそらくわかり合えないのだが、自分が具象の人なのか、抽象の人なのかを認識し、また、世界にはもう一方の人が存在していることを知ることはとても重要だろう。
具象の人がプロダクトやグラフィックデザインを仕事にする場合は、無理に抽象化しようとせず、具体的なモチーフを引用していった方が絶対いいものができる。自分が見た印象をどう増幅して再生産し、人に伝えるかだけが興味なのだ。
抽象の人がフィギュアを作るなら、トイフィギュアの「ベアブリック」のようなシンボリックなアプローチが成功するだろう。モチーフはきっかけにすぎず、自分が理想とするルール、フォルムを追求することが作品世界を拡げることになる。
そして、この二つの考え方の違い、認識の違いを意識すれば、相手に説明することも随分と楽になるはずだ。クリエイターチームでも、クライアントとデザイナーでも、不要な衝突をする必要がなくなる。考え方を押しつけるのではなく、自分にない属性もつ、相手を尊重すれば新しいことが生まれるに違いない。そう、人間が存続するために、理解しあえない「異性」が必要なように。
初出:【日刊デジタルクリエイターズ】 No.3669 2014/04/02.Wed
改稿:2014/07/05
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